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カバー曲でよく言われる「原曲超え」という表現が嫌いだ、という話

カバー曲でよく言われる「原曲超え」という表現が嫌いだ、という話 No music No life
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カバー曲が素晴らしい出来だった時によく使われる表現がある。

「原曲超え」という表現だ。

僕は個人的にこの言い回しが嫌いだ。

それはなぜか、以下に書いていこうと思う。

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原曲に対するリスペクトが足りない

一番大きな理由は、原曲に対するリスペクトが足りない表現だと感じてしまうからだ。

もちろん原曲超えと言っている本人にそのつもりはないのだろう。

しかしどこか言葉の綾というか、原曲をないがしろにしているように感じてしまう。

原曲あってのカバー曲なのに、それを無視しているように思えてしまう。

「原曲超え」と言ってしまう人達

原曲超えという表現を用いる際の心理としてはおそらくこうだろう。

「原曲よりもカバー曲のアレンジの方が自分好みだ。少し大げさな表現をもってこの曲の素晴らしさをみんなに知らしめたい。」

そう思う気持ちはよく理解できる。

僕にも原曲より好きだと思っているカバー曲はたくさんある。

でもそれは結局個人的な「好み」に過ぎないのだ。

「原曲を超えた」などという絶対評価ではないのだ。

結局は個人的な好みの問題でしょ?

音楽に限った話ではなく、あくまで自分の好みの問題に過ぎないことをまるで全体の総意かのように言う人は多い。

自分の好きなものは「神」、嫌いなものは「クソ」、その嫌いなものを好んでいる他の人達は「センスがない」…。

好きでいるのは結構なことだが、他を蔑むような表現はやはり不快だ。

ましてやどっちの方が良い悪いで争うことほどバカげていることはない。

僕は音楽などの話をする際は、個人的に「ハマる」「ハマらない」以上の表現はしないように気をつけている。

「原曲超え」という表現は、個人の好みという域から一歩外に出てしまった表現のように思える。

最後に

僕はなにも「原曲を超えるカバー曲などあってはならない」と原理主義的なことを思っているわけではない。

ただ、あくまで自分の好みの問題に過ぎないことをまるで全体の総意かのように言う表現に違和感を覚えているだけだ。

原曲もカバー曲もそれぞれに素晴らしくて、尊重して愛していくべきと思っている。

どちらも一つの「作品」なのだから。

ここまでの話に共感してくれる人とはいい酒が飲めそうだ。

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